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音楽偉人伝 第18回 D.L a.k.a DEV LARGE(前編)

約4年前2020年06月19日 11:05

日本の音楽史に爪痕を残すアーティストの功績をたどる本連載。8人目に取り上げるのは日本のヒップホップシーンに多大な影響を与えたラッパー / トラックメーカーのD.L a.k.a DEV LARGEについて、2回にわたって掲載する。前編となる今回は、アメリカ・ニューヨークで少年時代を過ごした彼がヒップホップの魅力に目覚め、BUDDHA BRANDのメンバーとして日本に上陸を果たし、快進撃を果たすまでの過程をたどる。

文・編集 / 高木"JET"晋一郎

ニューヨークで過ごした少年時代

DEV LARGE、D.L、DJ BOBO JAMES、DEV LARGE THE EYEINHITAE、HUSTLER BOSE、大峠雷音……その異名や“a.k.a”の多さはディスコグラフィサイト・Discogsの項目を確認していただきたいが、この記事では本人が(「最終的には」というエクスキューズは付くが)後年使用してきたD.Lという名前で統一しよう。

D.Lこと本名・今秀明が2015年にこの世を去ってから、5年という時間が経過した。日本のヒップホップシーンには、いとうせいこう以降、スチャダラパー以降、キングギドラ以降、RHYMESTER以降、SEEDA以降、KOHH以降……など、さまざまな歴史の断層と転換点が存在するが、その中でも“BUDDHA BRAND以降”という断層の大きさと転換の度合いは、シーンにおける確実な分水嶺であり、BUDDHA BRANDが、そしてその頭目でもあったD.Lが存在するか否かで、日本におけるヒップホップの“有り様”は、まったく変わってくるであろうし、それに異論を挟むリスナーはいないだろう。この稿では、改めてそのD.Lの足跡と功績を振り返ろう。

1969年に生を受けた彼は、家族と共に1980年に渡米。ニューヨークはクイーンズに居を移すことになる。そこで当時流行っていたSecret Weapon「Must Be The Music」などのディスコクラシックや黎明期のラップ楽曲、それに続くRun-D.M.C.の登場など、ラップ / ヒップホップがチャートに登っていく様を目の当たりにすることになる。そして小学校の頃からレコードを買い集めるようになり(毎週1枚ずつドーナツ盤を買っていたようだ)、その中で音楽的な素養を高めていった。

高校時代は日本に帰国し、日本の高校に編入。そこでKayzabro(DS455)とのつながりなども生まれている。それは後にDS455の最初期作である「Rollin' With My Masty, Rollin' With My Cadi」(95年リリースのV.A.「CLUB WILD.B」収録)へのD.Lの参加や、DJ PMXが「人間発電所」のプログラミングに関わるなどの動きにもつながっていく。

高校卒業後にD.Lは再び渡米。88年頃にはNYでクボタタケシ(キミドリ)と出会うなど、交友関係を広げていく。そして、そういった在NYの日本人コミュニティの中で、NIPPS、CQ、DJ MASTERKEYと邂逅。NYでテレビ番組「ズームイン!!朝!」の中継の仕事に関わっていたNIPPSと、DJ遊学するために渡米し、その中継に映りに来たCQとDJ MASTERKEYが出会い、またD.Lが働いていたレストランにDJ MASTERKEYが客として来店し出会ったことで、のちのBUDDHA BRANDにつながる4人の関係性が形作られていったという。

BUDDHA BRAND結成

この頃より、D.Lはプロデューサー / エンジニアのYoichi Watanabe(Yoh Watanabe)が立ち上げたブルックリンのスタジオ兼レーベルであるFunky Slice Studiosにインターンとして関わり、CASIOのサンプラーを使い始める。その中で「Funky Methodist」や未発表曲の原型が形作られた。

89年、BUDDHA BRANDの前身となる「うわさのチャンネル」(ただしNIPPSの弁によればこのユニット名は1週間ほどしか名乗らなかったという)、そして「NUMB BRAIN」が結成されていく(「ILL伝承者」のCQのリリックに「Mother f×××in' Numb Brain」という一節があるように、ブッダ作品でもその断片は見られる)。この当時、4人で1つの部屋を借りていたこともあったようで、その部屋ではCQの弁によれば「とにかく音が鳴り続けていた」という。また、その輪の中にはMIGHTY CROWNのメンバーの姿もあったようだ。D.Lは音楽イベント「ニューミュージックセミナー」に通訳などで関わるほか、NYに来訪するラッパーやアーティストのコーディネートを通じてMUROやYOU THE ROCK★、Kダブシャインなどと知己を得ることとなる。また雑誌「FINE」にも寄稿し、NYの音楽事情を日本に届ける役割も果たしていた(上記CQのコメントはSPACE SHOWER TV「『The Documentary "DEV LARGE"』~BUDDHA BRAND編~」より引用)。

93年5月には、数多くのラッパーを輩出した、ヒップホップの登竜門的なショーケースイベント「LYRICIST LOUNGE」でBUDDHA BRANDは「NUMB BRAIN BUDDHA BRAND」として初のステージを踏み(この日のホストはThe Notorious B.I.G.)、以降イベント出演やデモテープ作りなど精力的な活動を展開していく。

そこで作ったデモテープがクボタタケシの手に渡り、そこからECDの手に。そのデモテープをECDはさまざまな人間に聴かせていたようで、illicit tsuboiはインタビューで「(illicit tsuboiの所属したA.K.I Productionのアルバム)『JAPANESE PSYCHO』の共同プロデューサーだった石田さんに、レコーディング・スタジオから自宅まで、車で送ってもらうことがあって、そのときに面白いグループがいるんだよって聴かせてもらったのが、NUMB BRAIN(BUDDHA BRAND)のデモ・テープで。正にスゴい音で。俺らもスゴいことをやってるって自信があったけど、他にもこういう刺激的なことをやってるヤツらがいるんだってことを知って、またHIP HOPに対する意識が変わったんですよね」と語っている(Amebreak「BEAT SCIENTISTS ~HIP HOPのおとづくり~ VOL.7 feat. Illicit Tsuboi」より引用)。

“黒船”日本上陸~メジャーデビュー

そして、そのデモ音源がECDが所属していたavex内のレーベルCutting Edgeのディレクターだった本根誠の手に渡り、BUDDHA BRANDとCutting Edgeとの契約に結び付いていく。それと併行して、ブッダは自主制作盤として「Illson / Funky Methodist」を95年にリリースし、期を同じくして帰国。その存在感はじわじわと、しかし確実に日本のヒップホップシーンに野火のように広がっていった。

その注目度を決定付けたのが、日本語ラップのクラシックとして知られるシングル「人間発電所」のリリースだろう。本作は先に12inchアナログで発表され、のちにCDも発売された。同じシングル作品であっても、アナログとCDで収録内容を大幅に変えていることからも、本作のリリースにまつわるBUDDHA BRANDの高揚感、そして日本のシーンに“黒船”として今まさに打って出ようとする彼らの気概がひしひしと感じられる。

制作クレジットにRinky Dink Studioの名前があることからもわかる通り、レコーディングの多くは日本で行われた。そして「人間発電所」の制作には、エンジニアとしてillicit tsuboiが、プログラミング / マニピュレーションには前述の通りDJ PMXが、ドラムプログラミングはDJ WATARAIが手がけている(DJ WATARAIは「人間発電所(暖炉MIX)」も制作)。またNY時代の制作物のプログラミングにはトラックメーカーのNUMBが関わり、のちのトラックプログラムにはD.O.IやI-DeAが携わったように、D.Lは基本的にはトラック制作におけるプログラミングや組み立てをマニピュレーターと共同で行っている。

D.L自身は頭の中で、サンプリングソースに対して、「どのブレイクに、どのドラムとベースを足して、ピッチをこうすれば、こういった完成形になる」という制作進行を想像することができ、しかもそれを指示通り形にするとピッタリとハマるという特殊能力があったようだ。DJ PMXが「『人間発電所』を作るときに、D.Lがウチにネタのレコードを持って来て、『このループをああしてこうして』『ループに音階を付けて』ってイメージを俺に伝えて制作に入って……なんだけど、そのD.Lの言うイメージは今のDTMなら簡単に出来ることなんだけど、(当時のサンプラーのAKAI)S900じゃ出来ない技術の話だったんですよね。それで、『それは無理だよ、夢膨らませても困るよ』って(笑)。(中略)もし作ったとしても、当時の機材じゃすごく歪な音になってしまうような指示だったから、『そのアイディアの中だと使えるのはどれ、このネタだと使えるパートはこれ』っていう現実的なアプローチをして。D.Lは納得してなかったけど(笑)」(Amebreak「BEAT SCIENTISTS ~HIP HOPのおとづくり~ feat. DJ PMX」より引用)と話すように、そのイメージは時として機材の進化や技術を超えてしまう部分があったようだが、「ILL伝道者」でD.L自身が「空間処理能力 ni 長けてる」とラップするように、その脳内トラックメークが、数々の名曲たちを生み出していった。

日本のヒップホップシーンの最前線に

「Illson / Funky Methodist」「人間発電所」がリリースされた95、96年は、日本のヒップホップにおいて非常にエポックな時期だったと言えるだろう。94年にはEAST END×YURI「DA.YO.NE」、スチャダラパーと小沢健二の「今夜はブギー・バック」といったヒットがあったものの、日本語ラップに限って言えばRHYMESTERの宇多丸がさまざまなメディアで話している通り“冬の時代”だった。しかし95年にはRHYMESTER「エゴトピア」、MICROPHONE PAGER「DON'T TURN OFF YOUR LIGHT」、ECD「ホームシック」がリリースされ、96年にはキングギドラ「空からの力」やYOU THE ROCK★「THE SOUNDTRACK '96」など、矢継ぎ早に届けられる数々の地下の脈動は、確かな震度を地表に到達させようとしていた。そしてその流れの上に生み出されたクラシックが、96年リリースのLAMP EYE「証言 feat. RINO, YOU THE ROCK★, G.K.MARYAN, ZEEBRA, TWIGY, GAMA, DEV-LARGE」だ。DOMMUNEでのD.L追悼企画において、YOU THE ROCK★の「D.Lを無理矢理参加させた」というニュアンスの発言があったように、D.Lの参加は突発的だったようだが、音源版に限っては、このメンツの中でD.Lがトリを取ったことからも、シーンのD.Lに対する期待の大きさをうかがい知ることができる。

そしてその期待の決定打となるのが、ECDが仕掛けた、96年7月7日に東京・日比谷野外大音楽堂にて行われたイベント「さんピンCAMP」だろう。イベントの成り立ちについては割愛するが、のちに映像化された作品は、BUDDHA BRANDの帰国シークエンスから始まり、帰国直後にも関わらず1500人を集めたライブの模様、スチャダラパーやTOKYO No.1 SOUL SETなどを擁するクルー・LBネイション(Little Bird Nation)が「さんピンCAMP」の翌週に同じ日比谷野音でイベントを行うことをディスる「俺たちが大トリ、小鳥(Little Bird Nation)とは違うリアルなメンツ」というフリースタイル(今から見るとポップな仕掛けなのだが、当時はECD「MASS対CORE feat. YOU THE ROCK★、TWIGY」などのリリースもあり、“LB対さんピン”という構図を強く意識付ける一端ともなる)など、冒頭からBUDDHA BRANDが映像の軸になっている。ライブパートもSHAKKAZOMBIEとのコラボユニット・大神の「大怪我」でスタートし、フィニッシュをBUDDHA BRANDが飾るなど、オールドスクールマナーに貫かれた鬼気迫るパフォーマンス(D.L自身は納得しておらず、映像も観返していないようだが)と併せて、名実共に日本のヒップホップシーンの最前線に立つことになる。

同年12月にアルバム「黒船」をリリースし、さらにその翼を広げるBUDDHA BRANDだったが、96年から97年に変わるカウントダウンライブとして神奈川・CLUB CITTA'で行われた「鬼だまり」において、D.LとNIPPSが決裂。NIPPSはグループを脱退する(97年4月にリリースされたシングル「ブッダの休日」には参加)。

D.Lはヒップホップ専門誌「Front」「Blast」での連載「The World Of Buddha Brand」の執筆や、音楽番組への出演など、アクティビスト的な動きも活発化させていく。また97年リリースのBUDDHA BRANDのシングル曲「天運我に有り(撃つ用意)」はトヨタ自動車・ハイラックスサーフのCMに使用され、本人たちも出演するなど、グループに対する注目度は高まり、行動範囲も広がっていく。

しかしその注目度とは裏腹に、98年以降はBUDDHA BRANDとしての動きがそれまでに比べるとやや足踏み状態となり(それまでの動きが活発すぎたのでそう見えたのかもしれないが)、D.L自身はMOOMINやV6森田剛のソロ曲「DO YO THANG」のプロデュースを手がけるなど、プロデューサー / 裏方的な仕事も多くなっていく。その1つの着地点が自らのレーベル・EL DORADOの設立だろう。

<つづく>

制作協力:TSUNE(NOZLE GRAPHICS, DEVASTATOR Ent., HUSTLERBOSE PRODUCTION) / SPACE SHOWER TV / BLACK BELT JONES DC / ダースレイダー

(文中敬称略)

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